能動的か受動的か

『時の過ぎゆくままに』
『時の流れに身をまかせ』
皆さん、ご存知でしょうか?
上から順に沢田研二さん、テレサ・テンさんの名曲でございます。
自分も大好きな曲ではあるのですが、現実はこうもいかない…今回はそんな話です。
もちろんこの曲が名曲であることに揺らぎはないのですが、後々語りますが「理想と現実」という中では難しくなります。
まず滅茶苦茶簡単な話をしましょう。
飯を食べられなければ、当然ながら人は死にます。
ということは飯を作らなければいけませんが、飯を作るにも材料が要ります。
となると材料から手に入れなければなりませんが、手に入れるには自分から作るなりするか、他者から交換なり得られるだけの対価を準備する必要があります。
さあ問題です。
ここで時の流れのまま待っていたとして、これらの要件が満たされる要素が発生するでしょうか?
ほとんどの人が「NO」と答えるはずです。
実際、待っていてまるで何処ぞのPIXAR映画のように空から降ってくることはありません。
となれば受動的に待つ意味はありません。
基本的には能動的な行動になります。
そもそも「行動」の概念が能動的な訳ですから、受動的な要素は存在しないわけです。
しかし「鳴くまで待とうホトトギス」と言うように「受動的じゃね?」と思う方がおりますが、そう表された徳川家康は何もせずして征夷大将軍となり江戸幕府を開幕するに至ったのでしょうか?
これもまた「NO」という答えになるはずです。
彼は端的に言えば「準備」を怠らず、ありとあらゆる状況に即応出来る対応を採り続けて対応してきたからこそ、その地位を得たのです。
決して何もせずに「棚からぼた餅」のような形で得たものではありません。
そうでなければ紆余曲折あれど、徳川15代にも及び続けることは無かったことでしょう。
無意味なことというのは存在するのでしょうか…?
何かしら能動的に行動を起こした上での行動というのには、何かしらの意味が自ずと付随するからこそ行動するのであって、本心から無意味と思えるのはただ受動的に行動することだということです。

コメント

このブログの人気の投稿

無力

泣き声

変化と変節